教室に戻ってすぐ、サカリにどうだったかと訊かれたが、応える余裕なんてなかった。
授業の内容も、全く頭に入らなかった。
何がなんだか、正直さっぱりだ。
「トニー、今日、掃除ね」
「はぁ……」
恒例、罰掃除。
いつも助かってるぜ、ありがとなと、今日当番だったはずの連中が嫌味ったらしく言う。
まず、僕はモップに手をとった。
手順は全て頭に入っているし、速さだってそこそこある。どこを念入りにすればきれいに見えるのかということも心得ているつもりだ。
でも、それはピアノ科のためにはならない。
掃除と同じくらい、ピアノも上手くなれればいいのに。
黄金色の太陽が、教室に穏やかな夕の光を与える。
僕はきちんと並べた机を一度見渡して、自分の席で荷物をまとめる。
その時手がすべって、作曲ノートが床に落ちてしまった。
あわてて拾おうとすると、あの白い手が視界にちらついた。
「はい」
「あ、ルリ、いたんだ……ありがとう」
僕はノートを受け取った。少しだけ指が触れ合って、またあのおぞましいほどの冷たさが伝わった。
作曲ノートをすぐにはしまわずに、最近加筆した箇所をパラ見する。
「どうしたの?」
「ううん、何でもないよ」
確かに止まっていた時間。
それなのに、僕はまた時間を動かしてしまった。
あきらめた夢。どこかで消えてなくなった夢。それなのに
「んー、やっぱ何でもないことないかな」
「どういうこと?」
「なんで僕なの」
「光の作曲家だからよ。それにあなた、一度引き受けるって言ってくれたじゃない」
「僕は平凡な人間だ。いや、凡人以下だ。作曲家になるという道が許されず、ピアノでも落ちこぼれて。僕に幻想抱くのやめてくれないかな?」
彼女の表情が陰る。違う、こんな表情見たくない。
でも、僕は嘘は何も言わなかった。
「じゃぁ……やめる?」
「え」
「いいのよ。ちょっとの間だけでも、あなたと過ごせて楽しかった」
そう言って、ルリは廊下を駆け抜けた。
「ちょ、待って!」
何故か僕は追いかける。
放っておけば、僕は面倒から自動的に解放される。
でも、今しなければ確実に後悔する。
わがままだ、身勝手だ。
つねに曲を聴いておかないと死んじゃうと言った彼女。
そんな彼女が、何も持たない僕を頼ってくれているなら。
外に出た時、彼女は僕の腕に、つかまった。
「女の子よりは速いよ、僕も」
「トニー……?」
「ごめん。ほんとごめん。最後まで、書かせて」
気づけば、そこは僕たちが出会った場所だった。ルリはその冷たい手で、僕の両手を握る。
「私の光。あったかい……」
「いや、僕もそこまであったかくないって」
「ううん。あなたは、私の時間を動かしてくれる。ねぇ、私に未来を見せて。あなたの未来」
「僕の……?」
そんなこともあって、僕は引き続き作曲に勤しむことになった。
作曲ノートを見ると、ゴールが近づいてきているのを感じる。
「えーと、ルリのお気に入りのメロディを入れなきゃいけないんだよな。えーとあのメロディ……ら〜らら〜……」
夜の小路で、僕はあのメロディを唱える。
そのまま歩いていると、近くで聞こえていた足音が、ぷつりと止まった。
その足音の主は中年の男性で、急に僕の肩を掴んだ。
「言え。その旋律をどこで知った」
「え……?」
⇒NEXT