微妙な空気だった。
僕はピアノの前に座っていて、ルリはたった一人の観客であるモエを穏やかな瞳で見つめていた。
ルリは僕の曲を、一度楽譜を見ただけで理解できたらしい。このあたりがオルゴール、ということなのだろう。
ルリの合図で、僕は前奏を弾き始める。
ルリは、僕のメロディに合わせて、詞を紡ぎ出す。
あなたと歌ったあの歌も
あなたと過ごしたあの日々も
蓋を閉じても、忘れない
「くだらない……」
曲も終わらぬ間に、モエはそう呟いた。
「何なの? ぜんっぜん顔を出さないと思ったら、こういうこと?」
思わず演奏を止めてしまった。だがモエは、続けて、と僕に促す。
モエは満足してないみたいだよ、と僕が言うまでもないから、何か考えがあるのだろうと、続けた。
もうすぐ一番盛り上がる部分だ。ルリのメロディもそこに入る。きっと、そこで極上の歌詞でも用意してあるのだろう。
そう思っていたのに。
「……ららら……」
ルリは、僕のピアノに合わせて、ただラララで歌うだけだったのだ。
「……」
モエが顔を上げたところを、視界の端で見ることができた。
歌の技術は完璧そのものだ。オルゴールだから当たり前なのかもしれない。
でも、声はところどころで途切れる。彼女の終わりを告げるかのようだ。
だからこそ、何よりもまっすぐ心に届く。
僕は彼女の声の抑揚に合わせて伴奏を弾くし、僕がミスしたら彼女がカバーしてくれる。
ピアノも、無駄じゃなかった。
曲が終わる。僕は横を向けなかったけど、モエが泣く声が聞こえた。
「モエ……!」
目の端で、モエがルリに抱きつく。それから、何か助言のようなものを囁く。
次に、ルリは僕のほうに来た。
「トニー……ありがとう。あなたの未来が輝かしいものでありますよう」
そして、彼女は僕に軽くキスをした。
今までに感じたことのないような温もりが、そこから広がった。
またいつもの日常が僕を待っていた。
あれから特に、あのことを考える暇もなく、ただ忙しい日々が過ぎていくだけだった。
「トニー、最近よくなったね」
ある日先生にそんなことを言われて、戸惑ってしまった。
「あ、ありがとうございます」
その日のお昼休み、光に満ちたテラスに彼女はいた。
「モエさん! 来てたんだ」
「ええ、ちょっと前から。最近どう?」
「ああ、ピアノは続けることにしたよ。ちょっと自信もついたしね。作曲は作曲で続ける。大丈夫、できるさ」
「……そう」
「で、その……モエさんは? その、おじさんとは」
「ああ、あの後落ち着いてから言ってやったわ、ルリは蓋を閉じた、あなたがしようとしていたことよりも素敵な方法で、ってね」
なかなか言う子なんだな……。
「でも、それだけ言うのに、すごく時間がかかっちゃた。いつかルリはこうなるって、数ヶ月前からわかってたのに。……でも、私が歌い続ける限り、ルリはずっと聴いててくれるって思うわ」
「そっか」
目に見えなくても、耳に残る歌声というものを、彼女らは持っている。
僕にとって、それが自作の曲であるといいんだけど。
モエさんは、飲みかけのホットココアをそこで飲み干した。
「モエさん」
僕は改めて、モエさんに話しかけた。
「?」
「歌ってみてよ。僕、まだモエさんの歌は聞いてない」
「途中で居眠りしない?」
「しないしない!」
「まだ復学したばかりだし、ブランクがあって緊張するんだけど。一番好きな歌を、少しだけね」
セイレーンと光の作曲家
Fin.
⇒あとがき