あるマンドリンの話


 綺麗な音色。
 僕はその楽器の弦をはじいて、まずはじめにそう思った。
 真っ黒なクレヨンで塗られた僕のキャンバスを白い針が貫いて、そこから光が漏れてくる気がした。

 誰が捨てたんだろう。
 そう考え出したのは、僕がその楽器をゴミ捨て場から引っ張り出してしばらくしてからだった。
 まあ、もうこれは僕のものなんだから、誰のものだっていいんだけどね。
 僕はまず、全ての弦を一度ずつ弾いてみた。
 やっぱり綺麗な音色。
 まずは思い通りの高さの音を出せるようにならないと。弦を押さえながら、色々試してみる。
 ひとつ鳴らすだけで空腹が満たされ……はしないけれど。
 この楽器を弾けるようになれば、ちょっとはお金になるかもしれないし。

 僕は手をいためながらも、夜な夜な練習を続けた。
 三週間もすれば、音の高さは全て覚えられたし、早く弾けるようにもなった。
 でも、何を弾けばいいんだろう?
 ママの子守唄なんて、もう覚えてはいない。

 なにか曲が流れていたら、それを弾けばいいかもしれない。
 僕は街へ出た。屋根の下で暮らしている人たちにとっては、僕の外見は“ミズボラシイ”らしく、お金を持っていない僕を 自分の店に入れようとする人はいない。
 それでも、旋律だけはわずかなスキマをとおって、店の外にいる僕の耳に届くのだ。
 僕は旋律をすっかり覚えてしまい、楽器と声でそれを再現してみた。

 僕は広場にいる靴磨きの隣にすわって、演奏をはじめた。
 じゃーん じゃーん
 らーらららー
 楽器の音色と僕の歌声が、冷たいレンガの道にこだまする。
 初め、靴磨きは僕を見てぎょっとしたけど、すぐに表情は和らいで、
 いいものを聴かせてもらった、君の靴を磨いてあげようと言った。だけどその時、僕は靴を履いていなかった。

 靴磨きと仲良くなって、チップを入れてくれる人も増えてきた。
 曲のレパートリーも増えた。
 今日は、静かなバラードだ。
 だから僕の耳にもなかなか残ってくれなくて、途中から即興になった。
 それからもとの旋律にもどる。
 その時、僕はもう、作曲だってできるんじゃないかと思い始めた。

 楽器を握る手が汗ばむ。旋律は僕の中で流れている。
 僕は前奏を弾きはじめた。
 歌詞なんていつもラララだったけれど、今日はこの楽器を拾った時の思いを歌詞にしてみた。

 きみはいつもぼくといっしょ
 ぼくがひろったあのときからね…

「この歌はどこから……」
「広場よ」
「そこにつれてってくれ」
「わかったわ」

 そこまで弾いた時だった。
「そっ、そこのきみ」
 老人の声が、僕の楽器の音と噴水の音を越えて耳に届いた。
「僕はここですよ」
「そのマンドリンは……」
「えっ? マ、マンドリンって?」
「あれ、知らなかったのかい? その楽器、マンドリンって言うんだよ」
 戸惑う僕に、靴磨きが言った。
「そうでしたか。えっと、おじいさん! このマンドリンは、昔ゴミ捨て場で拾ったんです!」
「なんてことだ……それは私の……私の、マンドリンだ」
「え、あなたの?」

 よたよた歩きの老人を、付き添っている女の子が支える。孫だろうか。
「おじいちゃん、目が見えなくなっちゃったの」
 突然の病気で、そのおじいさんは視力を失ったらしい。
 突然というのはほんとに怖い。パパは戦争で、ママは病気で突然いなくなってしまったから。
「だからマンドリンも弾けなくなって捨ててしまったの」
「でもぼうやが弾いてくれていてよかったよ。その音色、すぐにわしの持っていたものだとわかったよ。もっと弾いておくれよ」
 僕は首を横にふった。
「なんで」
 いつのまにか僕の目は泪で潤んでいた。
「だって、目が見えなくなったからって捨てちゃうなんてっ……僕は目つぶっててもマンドリン弾けるんだよ……?」
 おじいさんの目がかっと見開いた。そこに僕と僕のマンドリンはうつっていない。
「おじいさんが弾いてよ」
「だめじゃ、怖いのじゃ」
「そんなっ……」
「ハァーイ! 皆おいでー! 今日は靴磨きを半額でやるよー! なんてったって、今日はマンドリンの元の持ち主が見つかった記念の日だからね!」
 靴磨きがいきなり立ち上がって言った。広場の皆がこっちを向いている。
「ちょっと、おじさんっ」
「おじいさんの音を聴きたいぼうやと、弾くのが怖いというおじさん。一緒に弾けばいいじゃないか」
「あら、それはいいわね」
 女の子の表情もぱっと明るくなった。
「おじいちゃん、私も聴いてみたいわ。二人のマンドリン。交代で弾けばいいわ!」
「でも弾き方なんて覚えては……」
「大丈夫! 手はきっと覚えているわ」
「それにここは明るい広場だ。皆がついてる」
 皆がついてる。
 ずっと独りぼっちだった僕だけど、今は皆がいる。
 靴磨きや常連の子たち。
 やっぱり、マンドリンは僕の針だった。

 噴水の水が顔にかかる。僕は目をつぶらなかった。
「じゃぁ……弾いてみようかのぅ」
 おじいさんから、待ち焦がれた言葉がこぼれる。
「ほんとですか!?」
 僕はおじいさんにマンドリンを渡した。

 しわくちゃの手が、弦をなぞる。
 綺麗な音色。
 僕は、まずはじめにそう思った。


100218